仏教では、人生は”四苦八苦(しくはっく)”という。
人生の根本的な苦しみは「生・老・病・死」の四つであるというのである。それらの四苦に加え、さらにもう四つの苦しみがあるという。
まず、「愛別離苦」(あいべつりく)。つまり、愛するものとの離別の苦しみ。次に、「怨憎会苦」(おんぞうえく) 、憎んでいる対象との出会いの苦しみ。「求不得苦」(ぐふとくく)、求めるものが得られない苦しみ。そして、「五蘊盛苦」(ごうんじょうく)、つまり、心身を持ち生きているが故に起こる苦しみである。
「五蘊盛苦」の”五蘊”とは、色・受・想・行・識の5つの要素の集合である。「色」(しき)は自分の体または物質的要素を指す。「受」(しゅ)は外界からの刺激を受ける心の機能。「想」(そう)は知覚したものについての思考する心の機能。「行」(ぎょう)は思考したものの潜在記憶およびそれに基づく行為を起こす心の機能。「識」(しき)は認識対象を区別して知覚する心の機能を言う。
生・老・病・死の四苦に、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の四苦を加えて八苦になるところから、「四苦八苦」という。
また、人間にとっての苦しみ(煩悩)は108有ると言われるが、四九で36、八九で72、合せて108ところからきているともいう。
サンスクリット語では、苦はドゥフカ(Duhkha)という。反対の安楽(幸福)はスカ(Sukha)という。人生はドゥフカとスカの混合である。つまり苦楽混合が人生である。
しかし、苦には原因がありそれは滅することができる、そのための方法があるというのが仏教でいう、四諦、つまり四つの真理である。苦諦、集諦、滅諦、道諦の四つである。ブッダが悟りを得た後、インドのサルナートでの初めての説法(初転法輪)の際にこの四諦を説いたとされる。
苦しみの原因は、煩悩であるが、その原因は貪欲や瞋恚(しんに)、愚痴などの心のけがれであり、その根本には渇愛(かつあい)があるという。欲望を求めてやまない衝動的感情のことだそうだ。
欲望は否定的な言い方だが、願望と言い換えることもできる。願望を持たない人はいない。しかしそれが極端に走ると欲望となる。確かにそういう意味で欲望は必ず、煩悩つまり、苦しみを生み出す。
ヴェーダにおいては、生命の根本にある創造原理を、ムーラ・プラクリティと呼ぶ。あらゆる精神的、物質的要素はそこから生まれてくる。ムーラ・プラクリティは、サットヴァ、ラジャス、タマスのみっつの要素(プラクリティ)から成る。
サットヴァとは創造するエネルギー、ラジャスは活動エネルギー、タマスは、停滞させるエネルギーである。それらがバランスがとれている時には超越的であるが、そのバランスが崩れると、精神的、物質的価値である人間や自然がそこから生まれる。
さらにそれらのプラクリティの背後には、まったくの静寂の意識の場であるプルシャが存在するという。プルシャとは純粋であり、超越的な精神であり、あらゆる相対的領域の目撃者であるという。
ムーラ・プラクリティは常に創造的である。したがって、生命は無活動であることはできない。存在そのものが常に根本で活動的である。したがって願望とは創造界の根本的な要素である。至福意識を得たいというのが生命の基本的な願望である。
苦しみとはその願望が達成されないときに生じるものである。それは根本的な苦しみである。ヴェーダにおいては生・老・病・死は存在しない。それらはプラクリティにおける現実であって、プルシャにおけるものではない。プルシャは不生、不老、無病、不死である。永遠無限の存在である。
このレベルが体験されないときに、人はあたかも人生は生老病死という苦しみに見舞われるという。プラクリティは衣服のようなものであり、プルシャが主体である。
プルシャという観点から見れば苦しみは存在しない。しかし五蘊、つまりプラクリティという観点から見れば苦しみは存在する。
ヨーガにおいては、深い瞑想においてサマーディ、つまり完全な静寂の意識を経験し、それが不動になったとき、苦しみを超越した人生を実現できると説く。確かに苦しみは存在する。しかし悟りを得た時にはそれは存在しないものとなる。
人生が四苦八苦ではなく、絶対の至福意識(Sat-Chit-Aananda)となるよう、日々精進したいものである。