ヨーガ八支足(アシターンガヨーガ)

  • 2009.06.30 Tuesday
  • 02:13
ヨーガスートラには以下のような詩節がある。

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yogaa.ngaanuSThaanaadashuddhikSaye j~NaanadiiptiraavivekakhyaateH(2-28)

ヨーガの諸部門を実践するにつれ、次第に不浄が消え、智慧の光が輝き、同一視からの弁別力が(現れる)。

yamaniyamaasanapraaNaayaamapratyaahaara
dhaaraNaadhyaanasamaadhayo.aSThaavaNgani (2-29)

制戒(yama)、内制(niyama)、座法(aasana)、呼吸の調整(praaNaayaama)、感覚の制御(pratyaahaara)、心の集中(dhaaraNa)、瞑想(dhyaana)、三昧(samaadhi)が八つの部門である。
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これら8つの部門の実践は、“ヨーガ八支足(aSTaangayoga)”と呼ばれるが、それぞれ対応する生命の8つの領域がある。つまり、社会行動、神経系、肉体、呼吸器系、感覚器官および感覚、心、心の精妙な領域、真我レベルである。

ちなみに「ヨーガ」とは日本では一般的にアーサナつまりポーズを指す。しかし、本来は、「統一、結合」などの意味のあるサンスクリット語である。動詞の語根は“yuj”であり、合わせる、結び付けるなどの意味がある。

以下、ヨーガ八支足である。

ヤマ:非暴力、真実、不盗、禁欲、非所有などの実践
ニヤマ:浄化、知足、修業、学習、献身などの日課
アーサナ:さまざまな体位
プラーナーヤーマ:呼吸法
プラテャーハーラ:感覚制御(感覚を内側へ引き戻すこと)
ダーラナ:精神集中(心の焦点を一つに絞ること)
デャーナ:瞑想(精神活動の精妙化のプロセス)
サマーディ:超越意識(心の平衡状態)

ヴェーダにおいては、また生命には大きく分けると、粗雑体(sthuula shaariira)、精妙体
(suukSma shariira)、原因体(kaaraNa shaariiram)3つの領域があるという。

また、ウパニシャッドでは、7つの層に分けている。肉体層(annamaya)、生理機能層(praaNaayaayma)、心理層(manomaya)、理知層(vij~Naanamaya)、至福層(aanandmaya)、自我層(aatmaamaya)、大我層(puruSa)である。これは粗雑レベルから根源レベルまで生命を段階的に特徴ごとに分けてみているのである。

ヨーガいおいては、これら異なるレベルにおいて、さまざまな実践がある。ヨーガの分野・種類を大きく分けると、肉体レベル中心のハタヨーガと瞑想中心のラージャヨーガである。

さらに、行動におけるカルマヨーガ、クリヤヨーガ、バクティヨーガ。知識の道である、ジニャーナヨーガ、瞑想のデャーナヨーガといった分類もある。

ヨーガの基本テキストには、こういった知識が説かれている。以下が古典的ヨーガテキストである。

1.ハタヨーガ・プラディーピカー(Yogi Svatmarama)15〜16世紀成立
2.ゲーランダ・サムヒター(Gheranda)17世紀後半成立
3.シヴァ・サムヒター(著者不明)17か18世紀?
5.ゴーラクシャ・サムヒター(gorakSanaath)11〜12世紀成立
6.ヨーガ・サラ・サングラハ(Vijanabhiksu)
7.ヨーガスートラ(patanjali)2~4世紀成立

近年は、ヨーガの主流としては、アイアンガー・ヨーガ(B.K.S. Iyengar 1918〜)、アシターンガ・ヨーガ(K. Pattabhi Jois 1915〜2009.5)、ヴィニ・ヨーガ(T.K. Srinivasan)などがある。

いずれにしても、ヨーガの実践は、究極的な存在と個人の意識が一つになることであり、また生命を変化する様相と、変化しない様相を明確に分別できる意識レベルへの進化するためにある。

そのためには、アシターンガヨーガの8つ目の領域である、サマーディの体験を繰り返し、ついには、ニルビージャサマーディ(nirbiija-samaadhi=種子三昧)の境地へと心が超越することである。そういった体験を、7番目の部門での実践である瞑想をとおして得ること。そしてその超越的意識を常に保持するレベルにまで達することである。

ヨーガの目的を達するには、“論より証拠”という言葉があるように、まずは実践をし、同時に知的な理解を深めることが求められる。アビャーサ(abhyaasa)つまり継続実践である。小さな経験が積み重なりある時、大きな変化へと導かれていく。
▼瞑想について

あの、ガーヤトリー・マントラ(3)

  • 2009.06.23 Tuesday
  • 23:44
はたしてこのガーヤトリー・マントラというものがどのように作用するのであろうか。この言葉を繰り返すだけで。

このマントラを十分に意味を理解するとわかることは、これは真実であるということである。古代の表現方法であり、詩的な表現であるが、その意味は科学的に翻訳すれば十分に納得のいくものである。

太陽は生命の創造主であり、そのエネルギーの恩恵により我々が創造され生きているということは事実である。そのエネルギーが私たちの心と体に拡大すれば、我々は自然の摂理に従った、より高度な知性をもって、より創造的に生きられることは確かなことである。もしそれができればである。

ただではなぜこの詩的な表現の言葉が、その望む結果を生み出すのだろうか。これはとても納得できる説明をするのは難しいことである。

以前、ガーヤトリー・マントラを何年もチャンティングしてきたが、まったく効果がなかったという人がいた。よく聞いてみると、マントラの中の重要な部分の発音が違っており、意味が正反対になることが分かった。しかし、実際そのために効果を感じなかったのかは不明だ。

またある人は次のような体験をしたと私に話してくれた。「突然私の左膝のすぐ横に、直径50センチくらいの光が差し込んだ。満月の光だと思った。そうしたら突然大きなエネルギーに包まれたようになって、気が付いたら理由はわからないが声あげて号泣した。ぜんぜん悲しくないのに。むしろ大きくて温かい慈悲に包まれて、あんまりにも幸せで流した涙だった。生まれて初めての体験だった」

ガーヤトリー・マントラは言う。サヴィターよ、貴方によって私の知性が目覚めますように、と。サヴィターとは太陽のエネルギーである。我々の知性の源である。我々の知性は内側の価値である。知っていても知らなくても、知性のみならず、我々の肉体は太陽のエネルギーの塊である。


そういう意味では、私たちの内面のエネルギーの価値を引き起こすためには、マントラをチャンティングするだけではなく、実際に内側の価値に意識を向ける必要がある。ニルビージャ・サマーディという意識の完全な静寂を体験するとき初めて私たちはその内なるエネルギーや知性の価値を実感する。

瞑想しサマーディを経験し、そしてマントラをそのレベルから静かにチャンティングするとき、自然とサヴィターの価値は溢れてくるものである。

▼瞑想について

あの、ガーヤトリー・マントラ(2)

  • 2009.06.22 Monday
  • 13:18
ガーヤトリー・マントラの最初のヴャフルーティ(Vyaahrti)と呼ばれる、三つの言葉は様々な訳がある。基本的には3つの世界(Loka)を表している。Bhuu Loka、Bhuva Loka、Svarga Lokaである。

外側の世界としてみれば、この地球という大地、我々の住む地上、そして我々の視界を超えた宇宙。内面として見れば、肉体、精神、そして超越意識である。時間としてみれば、過去、現在、未来の世界である。この3つをすべて含むものがブラフマン(Brahman)であり、その象徴がOMという聖音(Pranava)である。

ヴェーダにおいては、この世界を3つの体として区別している。粗雑な体(Sthula Shariira)、精妙な体(Suukshma Shariira)、原因となる体(Karana Shariira)である。シャリーラ(Shariira)とは体という意味である。仏舎利の「舎利」はこのシャリーラの漢字への音訳である。つまりブッダ(お釈迦様)の体(遺骨)である。

ウパニシャッドでは、異なる分類をしている。肉体層(annamaya kosha)、生理機能の層(praanamaya kosha)、心の層(manomaya kosha)、理知の層(vijnaanamaya kosha)、至福層( aanandamaya kosha)、真我層(atmaa kosha)の6つである。この最初の4つは前述の粗雑な体に入るであろう。

ブラフマンというこの宇宙の総体(全体)を無限の宇宙生命とすれば、彼には3つの様相があるということである。目に見える物理的存在レベル、目に見えない微細なエネルギーのレベル、そしてまったく超越的な絶対的レベルである。

ヴェーダでは様々な学派がことなる名前でこの生命の層を表現している。前述のBhuu Loka、Bhuva Loka、Svarga Loka以外に、4つの世界がある。Maha Loka, Jana Loka, Tapa Loka, Satya Lokaである。基本的には物理的レベルが5つで、精妙なエネルギーレベルが2つである。サティヤ・ローカとは真実の世界ということだが、このレベルは、人間の意識の最高の状態で知覚できる世界である。

したがってさまざまな世界というものは、実際的には人間の意識が進化し、洗練されてきたときに知覚される世界なのである。

手元の書籍にSant Keshavadas氏(1934〜1997)の翻訳があったので、紹介する。

「太陽をとおして具現化したあの主、至高の神によってなだめられたお方、叡知、至福、永遠の生命を提供するお方。我々はあの光を瞑想する。あの神の光によって我々の知性が輝きますように」

あの、ガーヤトリー・マントラ

  • 2009.06.19 Friday
  • 01:58
om buurbhvassvah ||
tatsavitur varenyam bhargo devasya dhiimahi |
dhiyo yo nah prachodayaat ||

ブラフマン 大地、地上、天上。
あの卓越したサヴィター神の最も優れた輝きを我瞑想する。
願わくば、そのサヴィターが、我らの知性を目覚めさせんことを。

かの有名なガーヤトリーマントラは、リグヴェーダ聖典「3-62-10」の詩句である。

日本ではガヤトリと発音されますが、「ガ」と「リ」は長音で、それぞれ「ガー」、「リー」と発音します。トリは"tri"なのでカタカナでは表記できないので、トリとしています。したがって「ガーヤトリー」となります。

このマントラを認知したのは、ヴィシュヴァミトラ家のガーティナという聖者(リシ)である。24音節の韻律(チャンダス)からなるもので、太陽のエネルギーを表すサヴィター(語根は”Savitr”、”Savitaa”は女性名詞の単数・主格)という女神を讃えるものである。

ガーヤトリーは、ヴェーダの母(veda maataa)とも呼ばれる。実際はヴェーダ聖典の中のマントラの韻律(チャンダス)の1タイプである。マントラはこの宇宙の真理とされ、24音節からなるマントラは、ヴェーダ聖典の基本であるところから、ガーヤトリーは神格化されている。

太陽神サヴィターに関するこの詩節は、一般的にガーヤトリー・マントラ(またはガーヤトリー・チャンダス)と呼ばれ、最も大切なマントラとされている。

ガーヤトリーは、究極の現実であり、時を越えて普偏在。富の象徴である蓮に座り、5つの頭に8方向と天地を見る10の目を持つ。ヴィシュヌとおなじ武器を10の手で持つ。

サヴィターは、太陽、特に日の出と日没時の太陽を神格化したものでである。彼女は、「刺激するもの、目覚めさせるもの、奮い立たせるもの、生気を与えるもの、生き生きさせるもの」という意味がある。日の出の太陽は暗闇を打ち破り、新鮮で、清浄で、生き生きとしたエネルギーを実際見る者にもたらしてくれる。

仏陀の生誕地である現在のネパールのルンビニを昨年訪れた。早朝に見たその黄金色の日の出は忘れることができない。今思えばまさにこれがサヴィターだったのだ。この太陽のエネルギーによりすべての生命が目覚め、活動し、生き、進化していくのである。

ディーマヒの動詞語根は「ダー(dhaa)」であり、「与える、保持する」という意味である。
または「ディー(dhii)」であり、「瞑想する、黙想する」という意味もあります。

プラチョーダヤート(pracodayat)の動詞語根は、「鼓舞する、奮起させる、促進する、早める」という意味のチュド(cud)である。

サヴィターをありありと思い描くことで、サヴィターが我々の知性を覚醒さますようにと願っているのである。

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イギリス人の古代インド文献学者の、Sir William Jones(1746 - 1794)は次のように訳している。

「万物を照らし、万物を再創造する、あの至高の太陽神を礼拝しよう。生まれ帰っていくところ、聖なる座に向かう我々の進歩において、我々の正しい理解のために懇願する」

また、Svami Dayaanandaの創設した Arya Samaj(1875)によると、このマントラは、次のように訳されている。

「ああ、神よ。そなたは生命の提供者、苦しみや悲しみの除去者、幸福の寄与者。ああ、宇宙の創造主よ、我らがそなたの罪を破壊する至高の光を受け取りますように。そなたが我らの知性を正しい方向に導き下さいますように」

また、リグヴェーダを(1850〜1888年の間に)初めて英語に翻訳した、H. H. ウィルソンは、この詩節を次のように訳した。

「我々はあの神聖なサヴィターの魅力的な(望まれる)光を瞑想する。そしてその彼女(サヴィター)が我々の敬虔な儀式に影響を及ぼしますように」

Sant Keshavadas氏(1934〜1997)は次のように訳している。
「太陽をとおして具現化したあの主、至高の神によってなだめられたお方、叡知、至福、永遠の生命を提供するお方。我々はあの光を瞑想する。あの神の光によって我々の知性が輝きますように」

------------------------------------------------------------

太陽の質量は、太陽系の全質量の99.9%を占めるとされる。したがって我々人間は太陽の分身といってもおかしくない。

都会では太陽の価値はあまり気付かないかもしれないが、生態系において、その価値ははっきりと実感できる。太陽なしには、生命はあり得ないのである。

そのため、古代の神話においては、太陽は様々な文化で異なる名までで崇められてきた。

インカ神話 - インティ
エジプト神話 - アテン、ラー
ギリシア神話 - アポロン
ケルト神話 - ベレヌス
中国神話 - 義和、火烏、燭陰
日本神話 - 天照大神
アイヌ神話 -トカプチュプカムイ
ペルシア神話 - フワル・フシャエータ、ミスラ
北欧神話(ゲルマン神話) - ソール
メソポタミア神話 - シャマシュ
ヴェーダ神話 - インドラ、ヴィヴァスヴァット、ミトラ、サヴィトリ、アーディティヤ、スーリヤ
ローマ神話 - アポロ、ソル
ヒンドゥー教神話 - ヴィシュヌ、スーリヤ、サヴィトリ
オセアニア神話 - ランギ、カネ・ヘキリ
スラブ神話 - ダジボーグ、ベロボーグ
フェニキア神話 - バアル・シャモン
メキシコ神話(マヤ・アステカ) - ウィツィロポチトリ
モンゴル神話 - ナラン

などなど数えればたくさんある。

太陽がなくても熱や光を生み出す現在文明ではその太陽の本来の価値は、忘れがちである。大半は石油や原子力による電気で光や熱を生み出してる。それらもまた太陽により創造されたのだが。

ガーヤトリー・マントラのチャンティング(詠唱)をとおして、またその意味を理解することをとおして、さらに言えば、深い瞑想により真我とつながることにより、自然の大切さ、その巨大なエネルギー、本来の人間の在り方を取り戻すことができる。

我々は生きているのか、それとも生かされているのか、このことにに気づくのである。もし生かされていると分かれば、すべての人が自分と同様に、他のすべての命の平和や幸福を願うものである。

戦争や不破や病気は、真我から離れ本来のあり方を失ったところから生まれる。つまり、「私」はほかの生命から独立したひとつの小さなかたまり、存在であるという観念である。


人体は約60兆の細胞からなるという。それぞれが独立した生命である。しかし人間という一つの生命体をすべての細胞が支えている。自分勝手に活動する細胞はない。

すべての生命は、ひとつのエネルギーもしくは太陽のエネルギーの異なる表現である。だからこそお互いに支えあい、高めあうのである。

我々の本来の知性を取り戻すために、深く深く瞑想し、内なる真我という太陽のエネルギーとつながることが求められる。

▼瞑想について

⇒参考

実存、光、そして不死

  • 2009.06.10 Wednesday
  • 01:38


om
asato maa sadgamaya
tamaso maa jyotirgamaya
mrtyormaa amrtam gamaya
om shaantih shaantih shaantih

オー(ム) 
アサトー マー サ(ド)ガマヤ
タマソー マー ジョーティ(ル)ガマヤ
(ムル)テョー(ル)マー ア(ムル)タ(ム) ガマヤ
オー(ム) シャーンティ(シ) シャーンティ(シ) シャーンティ(ヒ)

非実在から実在へ私を導きたまえ
暗闇から光へ私を導きたまえ
死から不死へ私を導きたまえ

これはブリハド・アーラニヤカ・ウパニシャッド(Brihad-Aranyaka Upanishad)の1-27の中の一節である。ウパニシャッドはヴェーダ聖典である白ヤジュル・ヴェーダに含まれるウパニシャッド文献のひとつであり、最も古い時期(紀元前800年から紀元前500年)に成立したウパニシャッドのひとつとされる。思想家ヤージュニャヴァルキヤの思想などが含まれる。この詩節の部分は一般にはシャーンティ(平和)・マントラまたはスヴァスティ(吉兆)・マントラとして取り出され詠唱されよく知られている。

AAat(アサト)とはa+sat、つまり非・実存であり、Sat(サト)は実存のこと。存在には2つのレベルがある。ひとつが相対世界であるこの現象世界であり、もう一つは相対世界の源としての絶対世界である超越的な領域である。サーンキャ哲学では、前者を”プラクリティ”後者を”プルシャ”という。プルシャは純粋実存であり、純粋意識であり、プラクリティには精神機能と物質的存在が含まれる。

ここでいう実存とは究極的な真実、万物の根本的価値、五感による知覚や心による知的認識を超えたところにある、我々の存在の根っこのようなレベルを指す。

ヴェーダにおいてこの宇宙の根本原理をブラフマン(梵)と呼ぶ。それに対し個人の根本原理をアートマン(真我)と呼ぶ。ヴェーダーンタ哲学においては、ブラフマンとアートマンは同じであると説く(梵我一如)。ちょうどそれは海と波の関係のようである。宇宙生命という大海が個人という波として現われているのである。

そしてブラフマンの特質は、”Sat-Cit-Aananda(サト・チト・アーナンダ”または”Saccidaananda(サッチダーナンダ)"であるという。サトは前述したように”実存"、チトは”意識"、アーナンダは”至福"である。

この相対世界においては、この三つの特質は具体的な価値として顕在化した。つまり三つの中の”実存"の側面は「物理的・肉体的存在」として、”意識"の側面は「知的・心理的価値」として、”至福"の側面は「感情的・情緒的価値」へと発展したのである。

人として、肉体的な存在としてある限り、私たちは実存のレベルにいるのではなく、非実存、つまり現象世界いる。この世においては私たちは精神的な活動を持つ物理的存在である。

しかし、瞑想によりサマーディ、特にニルビ−ジャ・サマーディ、(無種子三昧)つまり”完全な静寂”、”無拘束の意識”を何度も経験するに連れ、意識のレベルにおいては、実存と一つになるのである。

tamas(タマス)には、暗闇、地獄の闇、精神的な暗さ、罪、怒りなどの意味がある。またサーンキャ哲学でいう三つのグナ(属性、要素)、つまりサットヴァ(純粋本質)、ラジャス(激質)、タマス(暗質)のうちの一つである。三つのグナは、この物質世界の根本で作用するエネルギーである。それらの相互作用により、精神的な価値や物質的な価値が創造されるという。実存のレベルはこの三つを超えた向こう側の領域である。

相対世界は生成発展し変化消滅する。海の波のようなもの。しかし純粋なる実存は不変で永遠である。始まりも終わりもない。

jyoti(ジョーティ)は光である。私たちは日々の生活で苦悩し、時にはこの世界に暗闇を見る。しかし、心の本質は夜空の暗闇に浮かぶ満月のように光である。瞑想において、内側の静寂の体験を体験するとき、あたかも内なる満月のようなまばゆいばかりの静寂の光を体験することがある。このような体験を持つことで次第に見る世界の中から闇が消えていく。意識が変わると見ている世界も変わるのである。

mrta(ムルタ)とは死であり、amrta(アムリタ)とは不死である。人は126年の寿命を持つとヴェーダ聖典は言う。それほど生きることは実際にはないが、そうであったとしても死は誰にとっても超現実的な出来事である。避けられない。

生命の根源レベルからいえば、人は波のようなものであり、大海に生まれては消えていく。波が消えても常に海は存在するように、個人の心や体は何度も消えては生まれ、生まれては消える。根本ににある究極の現実は”永遠、不変の純粋意識の海”という実存である。

この詩句の示すのは、そのような実存に心を開き、その状態が確立されるように私の精神を高めさせたまえという切なる心の願いである。

誰も実存、永遠の光、不死といったレベルを日常生活においては知ることがない。しかし、ひとたび瞑想により、ニルビージャ・サマーディの体験を持つときその存在を知る。その体験は我々人間の神経系を純化し養い、そのような意識の高みへと導いてくれる。そしてついには、その意識こそが私の本質であるという大いなる覚醒を得るのである。

それは誰かが導くのではなく、あるいは誰かによって導かれるのではなく、私の心の本質が自らの力で進んでいくのである。自らの実存のエネルギーがそうさせるのである。

それが瞑想の自然なプロセスである。このウパニシャッドの詩句をチャンティング(詠唱)するとき、その意味を理解しながら行うこと。そして日々の瞑想を欠かさないこと。それは大切な私たちの命を輝かせてくれるにちがいない。

▼瞑想について

チャンティング♪

戦う仏教と非暴力、そして瞑想

  • 2009.06.08 Monday
  • 05:25
6月7日、護国寺(東京)で行われた僧侶、佐々井秀嶺氏の講話を聞いた。氏は現在はインド国籍を持ち、44年ぶりに日本に帰り、今後は日本に来ることはないという。(8日の3時12分が満月の瞬間であるので、この日はほぼ満月に近い月が夜空に輝いていた)。

数週間前にある僧侶からその存在を少し聞いたのが、初めてのことだった。ふと思い出すと、そういえば昨年ブッダガヤ(インド)の日本寺の取材に行った時に聞いたのはこの人のことだったんだとしばらくして思い出した。

僧侶となった佐々井氏が、インドのナーグプールに渡り、ダリット(不可触民)解放運動のリーダー、アンベードカルという人の志を受け継ぎダリットたちの仏教への改宗、ヒンドゥー教徒の管理下にあったブッダ覚醒の地ブッダガヤの大菩提寺(マハボディー寺)の奪還運動などを牽引していった人である。

ナーグプールはマハラシュトラ州にある、中央インドで最も大きな町であり同州で3番目に人口の多い都市である。ナーグ(※サンスクリット語ではナーガ)とは蛇(※中国では龍として登場する)であり、プール(またはプル)とは「町、都市、要塞」という意味がある。城壁で囲まれた都市のことを指す。”蛇の町”ということである。

ナーガ・ラージャ(Nāga Raja)はインドにおける蛇神の諸王であり、仏教では八大竜王をはじめ様々な竜神として取り入れられたとされる。 これらの八大竜王難陀(Nanda)、跋難陀(Upananda)、娑伽羅(Sagara)、和修吉(Vaski)、徳叉迦(タクシャカ/Taksaka)、阿那婆達多(Anavatapta)、摩那斯(Manasvin)、優鉢羅(Utpalaka)は元々ナーガラージャであるという。

仏陀もナーガ族から来ているという話も聞いたが、仏教にとって関係深い町であるようだ。この町の由来、ナーガ族についてご存じの方はお教えいただきたい。

これまでインドと関わりながら、佐々井氏、およびアンベードカルという人の存在は知らなかったが、その存在の意義は大きい。

500人以上の参加者が息をのみががら佐々木氏の話される一言ひとことに耳を傾けた。カーストの最下層にも入らない、アウト・カースト、つまり不可触選民の存在は知っていた。しかし彼らの実際は通常のインドの旅の中ではあまり知ることがない。

バジパイ氏(※インドでの呼び方はアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー)は、最下層カースト出身でありながら首相になった(1996年、1999年)。またつい最近、6月2日、女性議員メイラ・クマル氏(64)が下院議員でインド初の女性議長となったが、彼女はやはり最下層に置かれる「ダリット」出身である。

しかし、とは言え未だに信じられないような扱いを受けている多くの人たちがいる。

過去の今以上にひどい状況の中で、高い教養を身につけたアンベードカル氏(1891〜1956)は新生インドの初代法務大臣としてインド憲法と作り、不可触民制を廃止させた人である。しかし、実際には問題はまだまだ解決されず未だに続いている。


さて、この話の内容はさておき、ヴェーダや瞑想の知識や実践を広める私には、この話題は深く知り考えなくてはいけない問題のひとつである。ヴェーダの国インド社会の矛盾についてである。

それは知識そのものが問題なのであろうか。佐々木氏の話の中には心打たれることも多かった。そのエネルギーには敬服する。

しかしヒンドゥー教から仏教に改宗させるという言い方、また彼の教えにおいて瞑想は行われない。この点は、話の中での意味やその必然性は理解できるが、その本質的なところは、逆に理解してもらいたいと思うところもある。

またヴェーダ聖典においてはカースト制度について書かれているわけでなく、カーストは役割という点で書かれている。それを階級という制度にしたのはヴェーダ聖典そのものではなく、人間なのである。

瞑想は、佐々井氏のいう意味では不要であるという言い方はわかる。彼らの運動においては瞑想は不要である。しかし本質的な瞑想体験の質からいえば、体験者から見れば、不可欠な精神的体験を得る手段である。

ヒンドゥー教は、不可触選民にとって改宗されるべきもの。この2つの点は特に、下手をすると、進めたいという方向への逆のブレーキになる可能性もあるのではないかと感じる。

そもそも仏教における瞑想とヨーガにおける瞑想にはその目的や手法が異なることもあり、またヨーガやインドで広まっている瞑想にも多種多様なものがあるので、一概に瞑想の要不要のレッテルを貼ることはできない。

ヒンドゥー教というが、それは日本教というのと同じで、ヒンドゥーはインドという国を指すことばであり、インド教というのと同じである。その実態は一つの宗教というよりは多様な宗教的要素がある。

ダライ・ラマ法王の非暴力とこの戦う仏教という2つには大きな差がある。しかしどちらが方法として、人々を救う方法として正しいかは言い難い。歴史が将来どのような結果を記していくかでしかわからない。その国、地域の状況に応じて運動の在り方は異なってくると思う。

瞑想という自然な行為を大切にする私にとっては、その目的において両者の自由獲得の方法は異なっても、それぞれの人々にとって、意義のある体験を得る手段だと思う。瞑想つまり、サマーディという心の静寂な意識を体験することは心の平和、心の自由を得るために、不可欠ではないだろうか。頑張って、努力して得られる種の体験ではない。ブッダご自身が苦行を捨て、瞑想を行い、悟りを得たのではないだろうか。

しかしながら、このインドでの二つの動きに関してはよく知り理解していきたいと思う。抑圧され苦しむ人たちがいる限り、皆が平和で幸福でなくてはいけないと思うからである。差別や抑圧や不幸がある限り、それらはなくならなくてはいけないからである。ゴールは、達成したい目標は同じだからである。

▼講演の模様の動画(YOUTUBE)

瞑想のプロセス

  • 2009.06.05 Friday
  • 06:49
瞑想をすると経験するのは、外側の経験から離れ、静けさと内面の心の微妙な動きである。五感の中で圧倒的に優位にあるのが視覚である。目を閉じて見ると分かることである。次に聴覚。我々が経験はそういった五感によって日常の生活を営んでいる。

瞑想とはそれとは真逆の行為である。五感から退き、五感の経験をしている「私」自身を感じるのである。いつもは「私」は経験の対象に同化し、ともすれば失われている。

瞑想は心の流れるままに身を委ね、ついにはその経験者が経験者自身に戻っていくプロセスである。光線が光源へと自らを引き戻すようなものである。

そういうことでもなければ我々は自己を忘れ、経験の対象のなかに埋もれてしまう。そしてついには「私」とは何なのかがわからなくなってしまう。

サンスクリット語では瞑想は「ディヤーナ(Dhyaana)」という。これは動詞の語根のデャイ(dhyai)から来ている。「考える、思い出す、考えをめぐらす、熟考する、考慮する」という意味である。禅という言葉はこの音の漢字表記であり、禅那とも書く。

英語ではメディテーション(Meditation)というがこれもほぼ同様の意味がある。

しかし本来は、頭を使い思いめぐらすというものではなく、そういった精神活動さえも離れていき、真の自己というものに達するプロセスである。サマーディ、つまり三昧と呼ばれる意識の状態の経験である。

私が何かについて考えを巡らすのではなく、私が私自身の源へと心を向けていくことである。決して想念を思い浮かべ続けることではない。実際に心の源泉ともいうべき状態を体験することである。

ヨーガスートラには、 "Yogah chitta vrti nirodhah"、つまり「ヨーガとは心の活動を静止することである」と書かれている。精神活動が最小限になったとき、外側の経験や心の中の精神活動さえも消滅し、純粋無垢な「私自身」が存在する。その時に初めて、本来の私というものを知ることになる。過去から未来へと時を越えて継続する純粋なる精神性である。

今の時代、多くの人に必要なのはこの瞑想の経験ではないかと思う。悟りを得るということは決して知的な理解や気づきだけではなく、経験を伴うことである。知識と経験には大きな差がある。結局のところ経験なしには現実性に欠けてしまう。

スピリチュアリズムという言葉をよく耳にするが、特別なことではなく人間の本質的な意識の状態そのものがスピリチュアルと呼べるものなのである。

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