私は最近チベット問題に大きな関心を持っている。世界中で多くの人々が同様にこの問題に注意を払っている。
北京オリンピックが開催された。開催の数日前に日本人の記者とカメラマンが暴力を受けた上で警察に拘束された。取材をしていただけである。何もしていない彼らに少しでも動くと射殺すると言われたり、顔を殴られたり。近くにいた香港人の記者は「あなたたちはそのようにしてこれまで何人も記者を殺してきたのでしょう」と叫んでいた。
チベットのことを考えて見ると、何もしていない記者に対してあれだけのことが行われたことを考えると、ダライラマ法王の写真を持っていたり、自由をと叫びデモをしたり、抗議をしたりしているだけの一般市民や僧侶にどれだけのことが行われたかを想像するのは簡単だ。
人民解放軍が農奴解放という大義名分でチベットを支配してから50年程がたった。アメリカがチベットの戦士たちに武器を援助していた時期がある。これまで120万人が暴行や、餓死や、自決によりなくなった。僧侶たちを中心に。人口の20%が殺されたのである。それだけではなく森林資源や地下資源も奪われた。チベットにはインドから直接仏教が伝来した。ブッダの教えが色濃く残っている。しかしそれらは根こそぎにされてきた。人類の貴重な精神性の屋根もまた壊されているのである。
北京政府は巨額のお金を使いこのオリンピックを開催した。100年の夢ともいう。しかしこの影に隠されて苦しいんでいる人たちがどれほどいるか想像できる。中国に2年前訪れたときに開発近代かぶりには驚いた。しかし同時に、あちこちで起る農民や圧政に苦しむ人たちの抗議行動も多い。貧富の差は都市部と農村部では歴然としている。少数民族といわれる人たちともそうである。
出稼ぎでオリンピックの土木工事に来ていた民工と呼ばれる人たちも、オリンピック期間中は政府によって自宅に返された。チベットの多くの拘束されている人たちも、これまで森林伐採や重労働に借り出されきた。各地に収容所が存在する。収容所で生産され輸出される製品は中国の外貨獲得のためのかなりの割合を占めているという。
※参考:民工
チベットの人たちと会い話す機会が最近は多い。かれらはとても純粋で強い。シンプルで明るい。母国の危機的な状況においても信仰心を忘れず、非暴力で、ひたすら毎日祈っている。
私は5月19日のウエサクで始めてチベット問題をテーマとした集いを主催した。これはこの問題が単なる人権問題ということではなく、人類の基本的な問題として感じたからである。個人で何ができるかと思うときもあるが、しかし小さな努力はやがて大きく広がり、問題も解決されていくであろうと願うばかりである。
インドがガンジーの非暴力主義により独立を成し遂げたが300年かかったという。チベットが解放されるにはどれほどかかるだろうか。これは人類の平和へのチャレンジであるとダライラマ法王がおっしゃった言葉を心に秘めておきたい。
日々瞑想し精進をしつつ外側のことに関心を向け、よりよい世界のために生きていくことは、誰にでも望まれることではないかと思う。
チベット問題は日本やアメリカや他の国々にも責任がある。この問題を問題としてこなかったことである。現在もそうである。ビジネスつまりお金のことを優位に考えると中国との関係を悪くしたくないのであろう。しかしお金か命か。どちらが大事なのであろうか。
政治的なことに口を出すことはどうか、と思う人も多いとは思う。しかし己のダルマを成せという、バガヴァッドギータの一節が思い出される。それぞれのダルマに従いできることを行えばいいと思う。私にとってはこのことがひとつのダルマなのであろう。